そこに「愛」はあるんか、をつついてみる。 | 弥生坂 緑の本棚

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2023/09/23 15:36

「愛」は「愛する」という動詞である。という文章を読んだ記憶がある。
動詞という事は、「走る」「投げる」「打つ」と同じように、行為を示す言葉という事だ。

なるほど「走」「投」「打」は動作としてはあるけれど、物体としては存在するものではない。
行動してはじめて、走ったり、投げたり、打ったりの実体を掴むことが出来る。
「走」「投」「打」は、手のひらに乗せることは出来ない。

「愛」はどうだろうか。
愛がある、愛がない、愛をください、愛にあふれている、など、まるで名詞のように使われている。
「愛」も物体ではないから、手で掴むことは出来ないモノだ。
「愛」が動詞であるとすれば、「愛する」という動作をして初めて「愛」というものが現れるということになる。
そこで、ふと思ったのは、人はもともとは「愛」というモノを持っているわけではないのではないか。という事だった。
極端かもしれないが、人は「走」を持っているわけではない。走る事が出来てはじめて「走る」人になる。
なので、「愛」があるのではなくて、「愛する」という行動をしている人が「愛のある人」に見える。
というのが、正しい捉え方なのではないだろうか。
「愛は消えた」という言葉も、正しくは「愛することを止めた」という事であり、
愛が無くなったのではなく、「愛する」行為をしていないだけなのだ。
だからまた、「愛する」行動を起こせば、その人に愛は現れる。という理屈になる。

では「愛する」とは、どういう行為なのだろうか。
走ったり、投げたりすることのように、「こういう動作です」と説明する事は出来ないように思う。

親子、友人、恋人、上司、部下、同僚、教師、生徒、夫婦、医師、患者、ペット、野生動物、野生植物、園芸植物、etc.、
関係性の違いによって、「愛する」という行動は、全く違った形態を現す。
それこそ、人の数、生き物の数だけ、それぞれの「愛する」という行動形態があるといっても良いかもしれない。
その形の見えない多様性が、行き違いやすれ違い、悲劇、喜劇を生んでいるのだ。
「愛の劇場」とは、よく言ったものだ。

タイトルに惹かれて「植物たちの私生活」(李承雨・著/藤原書店/店頭にて販売中)を読んだ。
この作品のテーマが「愛」だった。
植物についての場面は少ないが、愛の一つの象徴としての植物が、作品の底にズシリと根を張っている。
やるせなく、底の見えない暗い河の淵を眺めているようなストーリーなのだが、
愛すること、愛し続けることの難しさを思い知らされる。
ここで浮かんできたのが、「そこに愛はあるんか」というフレーズだった。
本の帯に書かれている、「すべての木は挫折した愛の化身だ・・」という言葉。
愛を動詞として捉えると「すべての木は愛することに挫折したものの化身だ」となる。
うまく説明できないが、何かが違うような気もする。同じような気もする。
そこで、「そこに愛はあるんか」も直してみる。
「それを愛しているんか?」で正しいだろうか?よく分からなくなってきた。

この分からなさが、「愛」なのかもしれないとも思う。
人は結局、「愛する」ということの正解を持ち合わせてはいないのだろう。
答えのない「愛」に戸惑い、悩み、疑い、期待し、歓喜し、絶望する。

だからこそ問いかけ続けるのだろうか。

「そこに愛はあるんか」と。